【東京医科歯科大学大学院 医歯学総合研究科 環境社会医歯学講座 政策科学分野教授 河原和夫】
(1)戦前および戦後初期の医療施設整備の思想
医療機関の計画的整備は、各大学区に医学校1か所を置き、付属病院をこれに付属せしめること、第1大学区医学校に専門局を設け、専門医の教育を行うこととした1874年(明治7年)の「医制」の中に国家的整備の思想が見られる。
下って戦時中の1942年(昭和17年)に「国民医療法」が制定され、これに基づいて医療機関の全国的整備とその一元的運営を目的として、「特殊法人日本医療団」が結成された。戦後の1947年、日本医療団は解散したが、戦後荒廃した医療施設の整備が急務であった。そうした中、厚生大臣の諮問機関である「医療制度審議会」は諮問を受けて、医療機関の整備について「人口の分布等を基礎とする医療機関の全般的整備普及の計画に関する事項等を調査審議するため中央および都道府県に医療機関整備審議会を設置すること」「公的医療機関をすみやかに整備すること」などが答申された。
この答申を受けて、1948年に制定された「医療法」によって設置された「医療機関整備中央審議会」(後の医療審議会)は、1950年に「医療機関整備計画」を決定した。
その内容は人口2000人の診療圏に対し、少なくとも1診療所を確保し、病院の病床の整備目標をその種類ごとに定め、一般病院については都道府県立病院を中心とする公的医療機関網を中核として整備する方針が示された。しかし、戦後の社会資本の不足もあって、一般病院の整備は遅々として進まなかった。その後も、1951年の医療審議会は「基幹病院整備計画要綱」を決定したが、戦後の急速な経済成長は、公的整備ではなく民間資本による病院整備を容易にし、医療提供体制は量的な整備が進んでいった。こうした昭和40年代以前の公的主体による整備計画は、いずれもその目標を達成しなかった。
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