【独立行政法人地域医療機能推進機構(JCHO)熊本総合病院病院長 島田信也】
1.はじめに
前回は、「病院がまちづくりにかかわる必要性とその理念」と題して、体系的モデルを示しながら提案した。そのキーワードは「健康の面で安心できるまち」「子々孫々に誇れる景観と魅力あふれるストック型のまち」であり、このようなまちにこそ、教育も根付き、さまざまな雇用も生まれていくと考えられる。
「気なるものは容(かたち)を得て生ず」(大江匡房「闘戦経」:日本最古の兵書)との言葉がある。病院を核として長持ちする建物(レガシー)を1つずつ創造し、子孫までも誇れるまちにするという「容を得る」ことで、現在の「閉塞感」や「将来に対する得も言われぬ不安感」を吹き飛ばすような「気」(住民の意欲と覚悟)が湧き出てくるのではないだろうか。
本稿では、熊本県八代市における当院の実践を紹介しながら、その将来性を明らかにしたい。
2.熊本総合病院の新病院建設に至る経緯
熊本総合病院は、2011年1月に新病院の建設に着手し、13年1月に竣工したが、その経緯について触れたい=表1=。
表1 JCHO熊本総合病院の沿革
JCHO熊本総合病院の前身は、健康保険八代総合病院で、戦後の地域医療を推進するために、厚生省社会保険庁によって1948年(昭和23年)に八代市の中心地に建設された。一方、54年(昭和29年)には、労働者の健康増進のために熊本労災病院が八代市の郊外に建てられた。その後、八代市の2大公的病院として、地域住民の急性期医療に携わってきた。
ところが、2004年4月から開始された新医師臨床研修制度によって医師の引き揚げが相次ぎ、八代総合病院では、344床のうち約3分の1が閉鎖された。06年には「熊本県で潰れる病院ナンバーワン」と揶揄(やゆ)されるような状況だった。しかし、市の中心にある利便性や住民の高い期待の下で、全職員が一丸となって、医療ならびに経営の改善に取り組んだ。その結果、07年には黒字化し、長年にわたる経営不振から脱却した。08年には当時全国に52あった社会保険病院グループで利益額もトップとなり、多額の累積赤字も解消した。その後も、毎年約10億円の利益をコンスタントに計上できるようになり、念願だった新病院の建設計画に取り掛かった。当時、旧病院は極めて老朽化しており、ライフライン設備は故障だらけで、雨漏れや部分的崩落があったり、大部屋はすべて6床でぎゅうぎゅう詰めといったありさまで、質の高い医療の提供とは程遠い状況であった。
現地の再開発は制約も多く、理想的な新病院の建設は不可能かと頭を痛めていたが、幸運にも、旧病院と道路を隔てた斜め前の女子高校が移転することとなった。自治体の後押しもあって、2000坪を新病院用地として取得できた。ところが、「消えた年金問題」が発端となり、09年12月には社会保険庁が解体され、社会保険病院群は根無し草となったが、11年に地域医療機能推進機構(JCHO)への改組が決まり、新病院の建設をスタートした。病院の理念は、「高度急性期医療が実践できる新病院」はもちろん、「八代の『新しいまちづくり』に貢献すること」であった。
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