座間総合病院、リハビリ充実で退院早期に
渡病院長インタビュー
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座間総合病院は、総合診療科を前面に打ち出し、患者がどこの診療科を受診すればいいかなどで迷うことがないような工夫をする。
渡院長は「患者さんは、必ずしも胃とか肺とか、はっきりとどの臓器が悪いだとかと言ってくるわけではなくて、症状を訴えてくるのです。そのためには臓器に特化した医師ではなく、間口の広い医師が必要になります。それが総合診療科の医師たちです」と話す。
そこで同病院ではまず総合診療科が窓口となり患者を受け入れ、同科で診療を完結させることもあるが、そうでない場合には必要に応じて適切な診療科に誘導する。
同病院のリハビリ環境については、リハビリテーション専門職の人員を手厚く配置する予定で、運動器系と神経系のリハビリを充実させる。
6階建ての同病院の施設は、2階から5階までの各フロアにリハビリ室を設ける。
3階から5階までは入院患者用のリハビリ室。病室と同じフロアにリハビリ室を設置することで、患者が階段やエレベーターを使わずに移動できるようにした。
また2階のリハビリ室では、退院して在宅復帰した患者などが、外来診療で訪れてリハビリを受ける。
座間総合病院には、海老名総合病院にある人工関節・リウマチセンターが移設されることになっている。同センターは、股関節で年間約300症例、膝関節で同約150症例の手術実績があり、これがそのまま座間総合病院に引き継がれることになる。
同病院のリハビリテーション科では院内の人工関節手術以外にも、海老名総合病院で脳神経系の手術を受けた患者や、ほかの医療機関の患者も受け入れる。
神奈川県県央地区のJMAグループでは、海老名総合病院と座間総合病院が強固な連携を推進していく方針だ。海老名総合病院は2017年4月からの県央二次医療圏での救命救急センター指定に向け準備を進めている。そのスケジュールに沿って、それぞれの病院で機能分化・連携を進めていく。海老名総合病院が高度急性期を中心にした役割を、座間総合病院が一般急性期と回復期・慢性期の役割を、それぞれ担うことになる。 常に海老名総合病院が後方病院になり、座間総合病院が前方病院になるわけではなく、その立場は状況に応じて入れ替わる。
つまり海老名総合病院から座間総合病院に転院することもあれば、その逆もある。それぞれの地域連携の看護師、医療ソーシャルワーカーや事務職が連絡を取り合い、適切な医療を提供できる病院を選んだり、退院後の受け皿となる施設を手配したり、在宅復帰に向けた調整をしたりする。
■ある患者の一通の手紙がきっかけに
渡院長は、東京都大田区の医師の家に生まれた。18歳の時、父親が他界したため医師として直接、アドバイスを受けたことはないという。しかし、父親が小児科医院の医師であっただけに、昼夜関係なく近所の子どもたちの診療に当たっていたことは記憶にある。
1986年に日本医科大医学部を卒業、放射線科医としてキャリアを積んできた。患者を直接、診療するのではなく、読影医としてCT(コンピューター断層撮影)画像などを通じて患者を診断してきた。その渡院長はこの数カ月、海老名総合病院の放射線科部長の業務を続けながら週に一度、外来診療も並行して行っている。それは一通の手紙がきっかけだった。
1年前、あるクリニックの医師から、お腹を痛がっている50代の女性が同病院に紹介されてきた。年の瀬も押し迫ったクリスマスが近いころだった。地域連携の通常の流れとして同病院で腹部CTを撮影し、診断レポートを書いてクリニックに返すはずだった。
ところが渡院長がCT画像を読影したところ、急性虫垂炎であり緊急手術が必要だと判断した。紹介元のクリニックに了解を得た上で、すぐに院内の外科に連絡し、同日手術が行われた。迅速な対応のかいがあって、手術を受けた女性は数日後に無事に退院した。 その後、渡院長の元に一通の手紙が届いた。急性虫垂炎で緊急手術をした患者からだった。その手紙には「適切な判断のおかげで助かりました。めでたくクリスマスの朝の退院を迎えることができました。これからも多くの皆さまをお助けくださいませ」と感謝の言葉がつづられていた。
これまで渡院長は、自身の書いた所見やレポートの先に患者がいることを理解はしていたが、医師になり30年目にして、この仕事を選んでよかったと感激した。それ以来、患者をより身近に感じるために患者に直接、接したりする外来診療もすべきだと考えたのだ。この手紙は渡院長の机の奥に今でも、大切にしまわれている。
このような経験もあり、渡院長は座間総合病院の開院が間近に迫った今、JMAの前身である「仁愛会」の名を組み入れた「仁愛の精神のもとに、地域の暮らし・医療をつなぎます。職員の笑顔を通して、心に残る“安心”を届けます」という座間総合病院の理念を改めてかみしめている。”仁愛”とは、情け深い心で人を思いやることだ。
■海老名総合病院の齋藤初代院長の思いつなぐ
手紙をもらった患者以外に、渡院長が忘れられない人物がいる。1983年に開院した海老名総合病院で初代院長となった故・齋藤達雄名誉院長だ。2012年10月にがんで亡くなった。同病院で渡院長も臨終に立ち会った。
齋藤名誉院長と渡院長には共通点がある。同じ日本医科大出身で放射線科医だった。齋藤名誉院長は、同大で教鞭を執っていたこともある。渡院長が医師になり海老名総合病院に勤務したころは、放射線科医は少なく、他の病院では内科や外科の医師が読影を兼ねることもあり、放射線科医が重要視されない面があったが、同病院では初代院長が放射線科医だっただけに、そのような窮屈な思いをすることは全くなかった。
海老名総合病院で最期を迎えた齋藤名誉院長は、病室に渡院長が診察しに来るたびに、「よう。渡、頑張っているか」と左手を挙げて声を掛けてくれた。齋藤名誉院長はほとんど意識がなくなるまで、渡院長に同じように応じていた。そのしぐさは、渡院長が医学生時代に授業を受けたころと、全く変わっていなかった。恩師を看取るのはとても寂しい思いだったが、自分が勤める病院に入院していただいてよかったと、そのころを述懐する。
海老名総合病院の初代院長に齋藤名誉院長が就任したころ、同市内には70床の病院が一つと有床診療所しかなく、市内の救急患者の半分以上を市外に搬送していた。現在、海老名総合病院は年間7000件近くの救急患者を受け入れるなど、地域に根差している。齋藤名誉院長は、海老名総合病院の礎を築いた一人だった。
齋藤名誉院長が遺した言葉がある。1996年の医療法改正まで総合病院とは、許可病床数100床以上で主要な診療科(内科、外科、産婦人科、眼科、耳鼻咽喉科の5科)を含む病院のことを指していた。しかし、齋藤名誉院長は、「患者さんを中心に各職種が専門性を発揮し、それらを連携させ、最善の医療提供をすることが本来の総合病院である」と話していたという。
渡院長は、これから座間総合病院の院長としてかじ取りを任されることを、「貴重な機会を頂いた」と謙虚に受け止めている。
そして齋藤名誉院長からの思いをそのまま映したように、渡院長は同病院で一緒に働くスタッフに対して、「月並みですが、患者さんの“病気”だけを見ないでもらいたい。患者さんに向き合って、その家庭の状況がどうなっているのか、どのような人生を送ってきたのかなどを考えてほしい」と期待をしている。
さらに渡院長は、「医師や看護師だけでなく、組織の中でのネットワークを活用して、医療ソーシャルワーカーや医療技術職、事務職など多職種に相談しながら、院内の横のつながりを大事にして問題を解決してほしい」とも付け加えた。
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