病院辞めていた1年間が看護の幅広げた
座間総合病院・上野看護部長
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上野さんは、海老名総合病院が開院した1983年(昭和58年)の翌年に入職して以来、通算で30年余り勤めている。その間の約1年間、病院を退職して主婦業をしていたことがある。
看護学校を卒業後、東京都内の公的病院に勤務。病院内で知り合った薬剤師の夫と結婚したが、同じ職場では少し働きづらかったため、自宅を購入した海老名市に開院したばかりの海老名総合病院に再就職した。20代の後半に差し掛かるころだった。
海老名総合病院に入りほぼ10年間、上野さんはがむしゃらに働いたため、心身共に疲れ果て体調を崩してしまった。そこで、休職しようとも思ったが、完全に現場を離れようと考え、退職することを決めた。この医療現場を離れていた1年間が、その後の看護の幅を広げたと上野さんは述懐する。
■小児病棟の必要性を看護部長に直訴
「看護師は、病院内の小さな世界に閉じこもって考え方が狭くなってしまうことがあります。現場を離れていた1年間、空はこんなに青いのだとか、当たり前のことに気付いたりしました。仕事以外の仲間もでき、趣味を持ったりもしました」
このように、上野さんは話す。
上野さんは、その後、海老名総合病院に復帰することになるが、声を掛けてくれたのは、当時の看護部長だった故・加藤知子さんだった。加藤さんは上野さんの看護師としてのキャリアパスに大きく影響を及ぼした人物の一人だ。
上野さんの看護師としてのスタートは、一般内科と小児看護だった。都内の公的病院の未熟児センターや小児病棟で、白血病などの治療を続ける小さな子どもを看護していた。その病院を辞め、看護師の第二のスタートとして選んだ海老名総合病院は、開院して間もないこともあって、病棟に細かな区別はなく、成人と小児が同じ病棟に入院していた。上野さんはこれまでの経験から、成人と小児の看護はまったく別ものであり、病棟は分けた方がいいと感じていた。
そこで上野さんは、看護部長だった加藤さんに、成人と小児を一緒の病棟にするのではなく、早期に小児病棟をつくってほしいと直訴した。加藤さんはその訴えに耳を傾け、「私もそう思っていた」と理解を示し、現場から上がってきた声として、病院長に伝えてくれた。程なく、海老名総合病院に小児病棟が初めて誕生した。
これまで公的病院に勤めていた上野さんは、現場の一看護師の意見を真摯に聞いてくれた海老名総合病院の組織の風通しの良さと、一度決めたらすぐに動きだす民間病院のスピード感に驚いたという。
■「やり残したことがあったので復帰した」
加藤さんは、現場を離れ1年間主婦業をしていた上野さんに、海老名総合病院で再び一緒に働かないかと声を掛けた。
しかし、加藤さんが上野さんに任せようとしたのは、小児病棟ではなかった。成人病棟の師長のポストに空きが出たため、そこに上野さんを充てようと考えたのだ。上野さんは、ずっと働いていた小児病棟ではないことに一瞬、戸惑いを感じたが、後になってこれも自分の看護の幅が広がることにつながったと話す。
加藤さんの誘いを上野さんは、二つ返事で引き受けた。海老名総合病院でやり残していたことがあったからだ。現場を離れる前に上野さんは、キャリアを積むごとに増えていく部下の新人看護師をどのように指導し、マネジメントすればいいのか分からないまま、日々の業務をしながら、試行錯誤を繰り返していた。
現場を離れて、じっくり1年間考えたら、自分が管理者として未熟だったことが分かった。現場で問題を発見することはできたが、それを解決する策を見いだせなかった。問題解決できない自分こそが課題なのだと実感した。
復帰に当たり上野さんは、加藤さんに看護管理研修を受けさせてほしいと願い出た。加藤さんは、上野さんの申し出を受け止め、通常業務と並行しながら、出張扱いで受講できるようにしてくれた。業務をしながら、看護管理研修を受けたのは、上野さんが第一号だった。
JMAの看護師支援や教育の歴史は長い。グループ内にかつて、「海老名高等看護学院」(1990年2月―2007年3月)を持ち、准看護師が看護師になるよう後押ししていた。また、女性が人生設計しながら看護を続けられるよう保育所を充実させ、子どもの成長に合わせて、夜間学童保育も導入した。
看護実習も積極的に受け入れている。実習を受けた学生に、海老名総合病院に入職してもらうことが望ましいが、それ以上に学生を教育することを通じ、現場の看護師が緊張感を持って業務に臨む効果を期待している。学生に教育することは、現場の看護師にも得るものが大きいというのだ。
加藤さんは上野さんが復職した1年後、がんで逝ってしまう。加藤さんは、海老名総合病院で最期を迎えた。そこで上野さんは、病床の加藤さんと直接話すことはなかった。しかし、加藤さんから「これからも看護の質を上げられるよう努力してほしい、と言われた気がする」と話す。
上野さんは、今も加藤さんから言われた、小さな教えを守っている。白衣の左のポケットには、要らなくなった紙を再利用して作ったメモ帳が入っている。加藤さんに「覚えなくてはいけないことがたくさんあるのだから、覚えられなかったらメモをしなさい」と教わった。 「これが習慣になり、業務のことだけでなく、患者さんやご家族との小さなことも、何でもメモをする癖が付いた」。上野さんは、こう話しながら、左手でポケットの辺りをポンポンとたたいた。 ■看護師の親の背中を追って同じ看護の道に 座間総合病院の看護部長になる上野さんは今、来年4月の開院を前に奔走している。新たな看護部は、海老名総合病院と附属海老名メディカルサポートセンターから看護師を含め一部の職員が異動してくることになるが、それだけでは職員は足りない。経験を積んだ看護師だけでなく、新卒の看護師も集めている。
連日、看護師の面接をしていて、必ず質問することがある。経験のある看護師なら、これまで何をやってきて、新しい座間総合病院で何をやりたいのかということだ。面接をする中で、何人かの看護師とのやりとりで驚かされると同時に、この地域で看護師を続けていてよかったと感じる瞬間がある。 海老名、座間、綾瀬市に住んでいれば、どこの中学校や高校を卒業しているかなどを把握してから面接をするが、そのうちの何人かに「海老名総合病院の小児病棟に入っていたことがある」と言われた。自分が立ち上げに関与した小児病棟に入院していた患児が立派に成人し、看護師になっていたのだ。 海老名総合病院は33周年を迎え、親子二代にわたって看護師として勤務しているケースも出始めている。同病院の保育所に預けられた子どもが、親の背中を追って看護の道を歩んでいる。 ■市民説明会にも登壇
JMAでは、座間総合病院が来年4月に開院するのを前に、近隣住民を対象にした説明会を開催している。上野さんも説明者として登壇し、住民に対して新しい病院が何を目指しているかを話している。11月中旬に開催された説明会は、会場がほぼ満席になり、住民の関心の高さがうかがえた。
会場に来た一人の高齢の女性に聞くと、「これまで、座間市のコミュニティーバスを使って、遠くの病院に行かなくてはいけなかったので、座間に総合病院ができたら安心」と話していた。この女性は、建設中の座間総合病院の目の前に住んでおり、来年4月の開院を心待ちにしている。
上野さんは、来場者に対し「病院は皆さんにとって、決して来たい所ではないでしょう。しかし、来なくてはいけなくなることもあります。私たちはチーム医療を実践していて、患者さんやご家族が、そのチーム医療の中心的な存在になり、少しでも不安な気持ちを持たなくて済むようにし、不安を軽減するような医療や看護をしていきたいと思います」と話した。
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