【益田赤十字病院 院長 木谷光博】
はじめに
益田赤十字病院院長の木谷といいます。私は1958年(昭和33年)に兵庫県北部の新温泉町居組という無医村に生まれました。病弱でもあり、両親と近隣の開業の先生に散々迷惑を掛けました。そして子どものころ野口英世の伝記を読み、無医村での医師を目指しました。今思えば野口英世とへき地医療は無関係なのですが、なぜか医師になると決めていたようです。地域医療を充足させるという目的で、一県一医大政策の下に75年、島根医科大学が開学され、なんとなく76年に一期生として入学しました。82年に卒業し、大学では神経内科を専攻。神経内科医としての勤務を希望しましたが、当時島根県内の主な病院は関連大学の医師しか採用せず、学位を取得しても、専門医を取得しても病院で勤務する希望がかないませんでした。
益田赤十字病院には、91年に神経内科医が急きょ退職したのを受け、その後釜として採用されました。周りは他大学出身者ばかりで、なんとなく居心地が悪かったのを覚えています。2000年に副院長、12年に院長となり、現在に至っています。
2000年に初期研修医制度が導入され、その結果、地方の医師不足が起こりました。新設大学卒業生の病院勤務が困難であった当時を思い起こすと、島根大が県内病院の医師求人に対して満足な対応ができないことは信じられません。以前なら、希望しても手に入らなかった診療部長職が空席であるにもかかわらず…。
人が集まらないのは、専門を細分化し過ぎたことや、医療の進歩に加え、医学教育、医療安全、医業経営など、医師の進路の多様化などが要因かと思いますが、最も問題なのは医師の社会に対する義務感の欠如であろうかと最近は思っています。その証拠に地方医大の卒業生は母校にわずかしか残りません。母校に対する愛着も、地域に対する責任感も欠如しています。2回の連載では、へき地病院のマネジメントに関しての考えを述べさせていただきます。
1.当院の紹介
当院は島根県西部の石見部石西地区の益田市にある284床の急性期病院です。島根県でも東部の松江や出雲はそれなりに有名ですが、それに比べ石見部はほとんど知られていません。「石見」の読み方ですが、先日羽田空港ではイシミと読まれていましたが、イワミです。益田は万葉歌人の柿本人麻呂生誕の地、室町時代の水墨画家・禅僧の雪舟が終焉を迎えた地とされています。
当院は益田医療圏に属していますが、診療圏はさらに広く、益田医療圏と隣接する浜田医療圏の一部・萩医療圏の一部を含みます。診療圏の人口は約8万人で、高齢化率36%の人口減少地域です。面積は広大で、ほぼ香川県一県の面積に相当します=図=。益田医療圏には当院以外にも5つの病院がありますが、そのうち一つは精神科単科病院です。いずれの病院もご多分に漏れず医師不足で、機能不全と赤字に陥りつつあるところです。益田医療圏の高齢化は大都市圏より10年先を行っていますが、高齢者数は40年までは1万5000人前後で推移し、それ以降は急激な人口減少が生じます。人口減少・高齢化は全国でもトップレベルです=グラフ1=。
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次回配信は11月30日12:00の予定です
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