1970年の秋に京大医学部を卒業したわたしたちは、医師免許を持つ研修医として、同年11月から医学部の附属病院で働き始めます。学園紛争の前とは異なり、特定の医局に所属することはなく、外科系と内科系で分かれた研修プログラムに沿って、わたしたち卒業生の委員会が調整した診療科を回りました。現在の研修制度とは雲泥の差がありますが、日給計算で給与も支払われました。
2年間の研修を終えた72年の秋ごろ、わたしたちは外部の病院に行くことになります。従来は医局から派遣されていましたが、医局に所属していなかったため、委員会が関連病院に行った必要医師数の調査を基に、手挙げ方式で決定しました。学園紛争後の新たなルールがないまま、何から何まで自分たちで決めていたのです。既に消化器病学の専攻を決めていたわたしは、その分野が充実している大阪逓信病院(現NTT西日本大阪病院)に赴任することになりました。
(残り1956字 / 全2346字)
この記事は有料会員限定です。
有料会員になると続きをお読みいただけます。
【関連記事】