たくさんの困難も人に恵まれ乗り越えられた
あの時、私はこう考えた(5)
■時代の流れになると感じて腹腔鏡に挑戦 関川は日本に戻り、福島県立医科大病院で博士を目指す後輩医師の指導に当たっていたが、間もなく福島市内の大原綜合病院(429床)に移った。大学病院やオランダ留学で、一通りの研究を経験し、論文を書いていたが、臨床医がやる研究の限界を感じ、研究は基礎医に任せて自身は臨床を極めようと方向転換をした。 1990年ごろのことだった。普及し始めた腹腔鏡手術に、開腹術にこだわるベテラン医師もいたが、外科医となり10年のキャリアを重ねた関川は、これからは腹腔鏡手術が時代の流れになると読み、飛び付いた。大学病院でも腹腔鏡手術はまだまだ黎明期であり、民間病院での実績は皆無に等しかった。 大原綜合病院は、関川などの現場の医師の熱意と、当時の主任部長、田中隆士医師の尽力により、腹腔鏡手術の機器を購入。91年4月に腹腔鏡下手術が保険収載されたが、同病院での胆石摘出の1例目は、翌月に関川が執刀した。その後、症例を積み重ね、胃がんや大腸がんの腹腔鏡手術も始めた。 10年間、民間病院で手術に明け暮れる毎日の中で、研修医教育や学会発表、論文作成などをこなしていたが、99年に出身医局の教授交代があり、群馬大から竹之下誠一氏が、福島県立医科大第二外科(現、器官制御外科)教授に就任。その1年後、同教授の推薦と若手医局員たちの後押しにより、助教授として大学に戻ることとなった。 臨床一辺倒の生活から教育、研究も行わなければならない不慣れな生活に初めの1年間は、ため息ばかりの日々だったが、オランダでの研究時代さながらの論文読破を自らに課し、一方では手術、学生教育に心血を注いだ。そのかいあって毎年、多くの新人入局者を迎えることができた。 大学生活も軌道に乗った約6年後、川崎市の川崎幸病院(326床)などを運営する社会医療法人財団石心会の石井暎禧理事長に出会うことになる。石井理事長の「断らない医療」に共感して、2006年から川崎幸病院に勤務し始めた。 ここで4人の外科医局員と本格的な外科を立ち上げた。当時、年間350件程度にすぎなかった手術件数が10年間で、年間900件を超すまでになり、医局員11人を擁する外科医局に成長させることができた。 また、07年には消化器内科医・外科医たちと、消化器病センターを設立。川崎で消化器疾患の基幹病院としての地位を確立していった。関川は、「医局員、そしてそれをサポートしてくれる病院スタッフに恵まれたからこそできた」と語る。 関川は今、川崎幸病院の外来部門を分離して発足させた川崎幸クリニック(同市)からさらに分離して外科系と消化器系に特化した第二川崎幸クリニック(同)で、院長として陣頭指揮を執っている。 第二川崎幸クリニックには、がん化学療法外来を設置し、がんサポートセンターやがんサロンなども稼働させ、より良い医療の提供を目指している。 関川は、「私の医師のキャリアは、私自身はそこにいるだけで、代わる代わる目の前に現れる人々に導かれ、そして支えられているように思う。このクリニックの院長になったからには、石心会の川崎地区の医療施設が一丸となり、“がん難民”をなくし、このクリニックを中心としたがん医療のメッカづくりをしたい」と、まだまだ意欲は衰えない。=敬称略=【君塚靖】 「あなたの転機に寄り添うサポート 医療の転職はキャリアブレイン」
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