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あの時、私はこう考えた(3)
■病院勤務経てできた目標、「看護の労働環境整えたい」
大学では看護管理学を専攻。卒業後は、看護師として病院で働くことにした。それは、健康教育の仕組みをつくるのに、どんな仕事をすればいいのか答えが見つからず、「時間切れ」のように卒業の時期を迎えたからだった。
大阪で生まれ育った勝原は、通学できる範囲に看護系の大学がなかったことから、東京の聖路加看護大に進学したが、就職先には、大阪府吹田市の国立循環器病センター(当時)を選んだ。
資格を取ったのだから、看護師として働いて、それから先のことを考えよう-。そう思って就職した勝原は、配属先のCCU(冠疾患集中治療室)で、重症患者を看護する仕事に強いやりがいを感じた。
しかし、働き始めてから、自分が夜勤に合わない体質だと分かった。「看護は好きなのに、看護のシフトに順応することができませんでした」。
それでも、仕事を辞めるつもりは全くなかった。CCUの師長との面接を経て、次年度から夜勤のない部署に移ることが決まった。その直後、勝原は2つ目の大きな決断を迫られた。異動を控えた1月、大学教員のオファーが来たのだ。
オファーを出したのは、聖路加看護大の元教授で、兵庫県立看護大(当時)の初代学長の南裕子だった。直接電話があり、4月から看護管理学の講座を開く予定で、米国から招聘する教授の通訳ができる助手を探していると伝えられた。
急な依頼に、勝原の戸惑いは大きかった。しかし、大学側が探している人材の条件を考えると、これまでの経歴や「ご縁」が、すべてつながっているように思えた。
また、病院で働く中で、看護職員が生き生きと働き続けられる労働環境を整備するという目標が生まれていた。思い悩んだ末、勝原は大学への転職を決めた。
CCUの師長は快く送り出したが、急な退職で迷惑を掛けたことが、勝原にとって心残りだった。しかし、それから3年ほど経ったころ、大学の助手として担当したセミナーの会場で偶然再会した時、わだかまりが解けた。
「ご無沙汰しています」と勝原があいさつすると、当時の師長は勝原の顔を見るなり、こう言った。「病院で働いていた時より、ずっと良い顔をしていて、とってもうれしい」。
「あの一言がなければ、今でもずっと気掛かりなままだと思います」と勝原は話す。
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