百貨店売り場主任から看護職千人のトップに
あの時、私はこう考えた(3)
聖隷浜松病院(浜松市中区、744床)の副院長兼総看護部長として、看護部の職員1000人以上を束ねる勝原裕美子は、“デパガ”として百貨店の立ち上げに携わり、売り場主任を務めた異色の経歴を持つ。看護師とは全く別の道を歩んでいた勝原が今のポジションに立つまでには、3つの大きな決断があった。
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もともと、客室乗務員(CA)になる夢を描いていた勝原。新入社員として京阪百貨店に就職するまでにも紆余曲折を経た。
高校を卒業したら、すぐに就職するつもりでいたが、進学に熱心だった高校の教師などの勧めで同志社大の英文学科に入学した。大卒として就職活動に励んだものの、当時CAを募集していた航空会社の試験に軒並み落ちた。並行して受験し、合格した会社の一つが、新卒2期生を募集していた京阪百貨店だった。
同社の母体である京阪電気鉄道は、それまでにショッピングモールなどは手掛けていたが、百貨店を運営した経験はなかった。大阪府守口市の1号店は建物すらなく、社員のほとんどは元“鉄道マン”だった。
内定の通知を受けた企業の中から同社を選んだ決め手を、勝原は「新しい百貨店を自分たちでつくり上げるのは、夢があって面白そうだと思ったんです」と振り返る。
就職した年の秋に百貨店がオープンすると、台所用品売り場に配属された。3年目には売り場主任に抜てきされ、労務管理や商品の買い付け、マーケティング、広告掲載など幅広く携わった。
仕事は忙しく、終電を逃すこともあった。それでも、同僚に恵まれ、やりがいを感じる日々が続いた。「今でも、百貨店に戻ってもいいと思うほどです。辞めなければいけない理由はありませんでした」。
そんな勝原が看護の道に進む転機は、病院で療養していた祖母がくも膜下出血を発症した際に訪れた。
幸いにも、すぐに手術できたことで祖母は一命を取り留めた。異変にいち早く気付いたのは病院の職員ではなく、同室で療養する患者の付き添い人だった。寝息の音がおかしいと病棟看護師に相談したことで、早期発見につながった。
「付き添いの人でも、患者さんを救えるのだ」。勝原はその時、医療者以外の人が健康や病気に関する知識を持つ重要性に気付いた。
世の中に正しい知識を持つ人が増えれば、急変した乗客をCAが救えるかもしれない。百貨店で家具や洋服を売る際にも、顧客の体格やアレルギーなどに合わせて提案できるはずだ-。さまざまなアイデアが浮かび、健康教育の仕組みをつくろうと考えた勝原は、百貨店を退職。「看護師さんなら、栄養とか薬のことを、総合的に勉強するはず」と、聖路加看護大(当時)に進学した。
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